1. 本当に兄弟仲は良かったのか
「あんなに仲の良かった兄弟が、相続を機に犬猿の仲になって、互いに顔も合わせず悪口ばかり言い合っている」という話をよく聞きますが、そもそも、親が生きていた時から本当に仲が良かったのか、結構疑問に思うケースが多くあります。
ちなみに、うちの祖父の葬式で、叔父二人が取っ組み合いの喧嘩をしていたこともありました。
2. 人には相性がある
もともと、人には相性があり、合う・合わない、なんとなく可愛い・可愛げがない、自分に似ているのが欠点を見せつけられるようで嫌・似ているのが嬉しい、など同じ状況であるのに理不尽に好かれたり嫌われたりということはよくあります。
当然、親子でもそういう事が起こっていて、親がその本心を悟られないようにとする努力、合わないと思う子供に本心を殺して優しくしたり、好ましい子供とあえて距離を取ろうとしても、他人はともかく、毎日共に暮らす子供には案外伝わってしまうものです。
このようにして生活していく中で、兄弟は「あいつの方が可愛がられている」「結局は兄ちゃんが大事なんだ」「そういえばあの時も弟は怒らずに俺ばっかり怒られた」「お姉ちゃんなんだから我慢しろという理屈なら一生我慢しなきゃならない」「弟だけ東京の大学院まで行かせた」「お姉ちゃんの成人式の時だけ着物を新調した」「兄ちゃんの就職は近所に自慢して回っていた」などと、それぞれが心に不満を抱いていることになります。それでも、親が生きている間は、なんとか我慢しています。
3. 親の子供を見極める目も大したことはない
しかし、親の面倒を見ないといけなくなると、案外、好ましいと思ってきた子供は実際には介護もせず好き勝手に生きているのに、期待してなかった子供が献身的に介護してくれるという例は腐る程あります。
つまり、親の「人を見極める目」がなってないのです。人をきちんと見る目のない人間でも親にはなれます。親といえども何年も人格の修行をして親になるわけではありません。ある日突然、何の勉強も用意もなく親になるのですから、子供を見る目がなくても仕方ないのです。ただ、そんな見る目のない親に理不尽な育てられ方をした子供にとっては、やはりしこりは残ります。
4. 形式的平等の落とし穴
そして、やがて、親が亡くなる日が来ますが、そういう親に限って、あれだけその子一人が一生懸命介護して、他の子供が何一つしなかったことを目の当たりにしてきたくせに、「相続は平等に分けて」などと言い出します。
なんなら、相続だけ平等で、負担以外のなにものでもない墓や法事の義務を一人に押し付けたりします。その子が内心納得できないのは言うまでもありません。
そこへ、配偶者が横から口を出します。「なんであっちは何も負担しないでしっかりもらって楽するの? 不公平だよね」「介護の時も1日も世話してないし、お金も出してないよね」と。口の立つ娘がいたら参戦してきます。「お父さんが甘いから舐められてるんじゃないの」「本来、長男がすべきなのに、お母さんは嫁に行って名字も違うのに介護だけじゃなく普段から良い様にこき使われて、私たちだってすごく犠牲になったのよ」などなど。
となると、小さい頃から、我慢したり封印してきた気持ちがむくむくと湧いてきます。「なんなのあの兄は」「バカ弟は要領だけで生きてんだよ」・・・「せめて、今まで出費してきた分の半分はよこせよ」
5. これらの相乗効果が「争族」を生む
つまり、相続になる原因は、①育て方が間違っていた、②負担と比例する相続にしなかった、と言うことではないでしょうか。長い年月をかけた怨念があるだけに、一筋縄ではいきません。「兄弟は他人の始まり」「遠くの親戚より近くの他人」、日本のことわざはよくできています。
人である以上、「平等に愛する」ということは出来ないと諦め、「愛情が薄かったな」と思った子やお世話になった子やその配偶者には、生前にこっそり現金を渡しておくとか、何らかのフォローが将来の円満の秘訣かも知れません。
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